2020.06.28
<概要>
Parisからほぼ真西に約80km、日帰りでDreuxへ行ってみました。
Dreuxは人口約3,1000人の穏やかで端正な感じの地方都市です。古代ではGaule(ゴール人)のDurocassas族の住むCivitas(キビタス:城塞都市)の一つであり、古代ローマの支配が終わる463年頃、DreuxはOrleanに侵入してきた東方の蛮族である西ゴート族に戦いを挑んで勝利したとの記録がありますが、定かではありません。西ローマ帝国滅亡後はフランク王国初代の王Clovis(481-511)によって占領されました。
Dreuxはスカンジナビア半島あたりから侵入してきたルマン人が領有したNormande(ノルマンディー)に隣接するフランス王家側の都市であり、幾多の戦闘が繰り広げられています。ユグノー戦争における最初の大規模な戦いであるDreux(ドルー)の戦いが1562年12月19日に起き、カトリック勢力を率いたアンヌ・ド・モンモランシーが辛くも勝利をおさめました。
フランス革命以前の1775年にルイ16世によってドルー伯領は、パンティエーヴル公ルイ・ジャンへ与えられました。1783年にルイ・ジャンは所有していたランブイエ城をルイ16世へ売却し、同年、ルイ・ジャンは9つの棺(父ルイ・アレクサンドル、母マリー・ヴィクトワール、妻でモデナ公女のマリー・テレーズ、そして自身の7人の子供たちのうち6人の棺が含まれていた)を、ランブイエ城の隣からサンテティエンヌ・ド・ドルー教会へ移しました。ルイ・ジャンは1793年3月に亡くなり、彼の遺体も両親の眠る納骨堂に安置されましたが、フランス革命中期であった同年の11月21日、暴徒が納骨堂を荒らして10あった遺体を同教会の一般墓地へ投げ込みました。
1816年にルイ・ジャンのただ一人生き残っていた娘で、オルレアン公爵夫人のルイーズ・マリーは、生家の終の棲家として、一般墓地の場所に新たな礼拝堂を建設しましや。1830年、ルイーズ・マリーの長男でフランス王となったルイ・フィリップはこの礼拝堂をChapelle royale Saint-Louisux(サン・ルイ王室礼拝堂)と名付け、美しく飾り立てました。現在この礼拝堂はオルレアン家の埋葬地となっていて、現在もその一族が葬られ続けています。
近年ではDreuxは1983年の国政選挙で注目を集めました。極右政党である国民戦線が初めて市議会で第一党となり、副市長を輩出。当時、厳しい失業と移民社会(特にイスラム教徒)に絡む不満が突出したことがその理由に挙げられています。今はとても穏やかな感じの街です。
<見所>
車をChapelle royale Saint-Louisux(サン・ルイ王室礼拝堂)の南側にある小さな駐車場に停めて先ずはさいだいのみどころである王室礼拝堂へと向かいます。敷地の西側を大きく迂回して北に上がり、そこから敷地内入口に入りました。入口付近にも駐車場があったので、ここまで車で来ることもできるようです。
入場料は一人eur9.1です。新型コロナ感染対応で館内では大人(11歳以上)はマスク着用が義務付けられていました。チケット売り場のスタッフから、最初に庭を散歩してから礼拝堂に向かうと良いとのアドヴァイスを受けてそのように見て歩きました。